京都八瀬町並 |
かまぶろは古来日本人の入浴法で今より千三百年前、白鳳時代壬申の乱に大海人の皇子(後の天武天皇)が流れ矢を背に受け、この傷を癒すため里人がかまぶろを利用されたと伝えられ、今も京都八瀬(矢背) |
に史蹟として残されています。これは原始的な素朴な外観で素朴な形でありながら千三百年も伝えられたこと自体秀れた効果と健康保持の上に如何に必要なものであったかを証明するものであります。 |
京都八瀬窯風呂 |
八瀬窯風呂(平安後期1100年頃) |
盾ヘ「都名所閻潤vにある八瀬蕉風呂で、記載の歌は
新続古俳諧
大原へ行とはなしに恋すればやせとをりぬる物にぞありける
清輔とありて「志すれば痩せ」と「八瀬」を隠語にしたも
ので、新古今頃の作と言う
藤原清輔(平安後期1100年頃)
顕季 → 顕輔 → 清輔
→ 顕昭
→ 季経
顕輔=近衛天皇大養元年、崇徳上皇の院宣により詞花和歌集を撰進。
清輔=牧笛集、続詞花集を編す。歌論書としては袋草子、
和歌雑談抄、和歌初学抄、和歌一字抄あり。六条家
の歌風を大成、家学を確立。六条家の和歌の師範家
として門閥の端緒を成す。